2009年頃の古文書です
ぼちぼち現状に即して書き直そうかと(2019/07)
目盛りと階段の違い_和式絶対音感教育の不幸
(2009/07/20)
音程の認識の仕方について。
目盛り式と階段式の2通りが世の中にあるようです。
目盛り式はアナログです。
階段式はデジタルです。
目盛ることであたかもデジタルっぽく見えますが、
実は目盛りと目盛りの間は無段階に「中間」が存在し、
その目盛りの分解能はトレイニングによっていくらでも細かくできます。
もちろん必要に応じて大雑把に目盛っても利用できる。
対して階段は、絶対的な間隔です。
その中間の存在を認めないという価値観です。
さて流行の絶対音感教育。
日本で広く行われているものの「求める結果」とは、
「A=442Hzを基準ピッチとし、
そこに在るCメイジャースケールの各音高をドレミファソラシドと呼ぶ。
それを階名ではなく音名として扱う。
その変化音にはシャープないしフラットを適宜つけて表す。
(調性を重視する概念に乏しいため、シャープ・フラットの使い分けは適当。
オマケに、音名唱の際にはシャープ・フラットは付けないで歌う。)
調律は平均律。
ある音高を聞いた瞬間にそれが、ドなのかレなのかミなのか、、、
を感知できる人になるのが目的。
その目的のために極幼少時に、特定の音高群とそのラベリングを直結させる
ような訓練を行う。」
です。
その結果、そのピッチでの半音階からズレた音高は
「オカシイ」「キモチワルイ」という人になります。
全くに不幸なことです。
実際の音楽は442Hzではないピッチで演奏されることも多いし、
平均率ではない音高を求められることも当たり前にあるからです。
たとえば厳密にハモろうとするならば、そこでは必ず
純正律的音高コントロールが求められます。
演奏技術上の問題で、アンサンブルの中で違ったピッチで
演奏し続け、修正不能な者が居れば、他の奏者はその人に
合わせるか、クビにするかのいずれかでしょう。
もちろんその人にオカシナ音高を覆って余りある音楽的表現の
魅力があるならばクビにはできないでしょう。
(プロに限ってはクビにもなり得ますが)
もうひとつ残念なこと。
本来は階名であるはずのドレミを絶対音名として扱うことです。
彼らは「ドレミの歌」をFメイジャーで歌うのを不愉快に感じます。
どんなキーであろうがドレミの歌の音楽的価値に違いは無いので、
その人の声が最も活かせるキーで歌われるべきです。
ところが、和式絶対音感教育を受けていると、そこに壁ができてしまいます。
私は絶対音感教育自体を否定はしません。
その能力を備えていれば便利ですから。
ただし、その能力のオーガナイズの仕方を誤るべきでないと思うのです。
特定のピッチに平均律で配置された音高のみを正しいと感ずる
階段的音高感覚は、音楽の表現と受容に大きな障害をもたらします。
ドレミを絶対音高の名称として扱うこと。
それは機能和声的音楽の感受性、すなわち、
音程による緊張と緩和(テンション&リリース)と
多層的引力構造がトニックを特定することなどの感受性の
育ちを阻害します。
そこで、解決策を提示してみます。
幼少時の絶対音感教育に於いて、感受した音高を「ドレミ」で
ラベリングするのではなく「周波数」その数字で名付けるようにしましょうよ。
小数点以下いくらでも細かい可能性はあるのだ、という認識と共に。
それができるならば、
「適宜割り付けた目盛りの一種」としての平均率など、簡単に扱えるはずです。
で、様々な目盛りの読み方のひとつとして、音名や階名を覚えればいいわけです。
簡単に言ってしまいましたが、どうなんでしょうかね?
誰か実験してくださいな。
絶対音感教育と固定ド唱法という結果、ゴッチャにされてることが多いですね。
絶対音感を持っていれば固定ド、みたいな。
というか、実際我が国ではそういう結果になるような教育がなされているので、
そう受け止められるのも仕方在りませんね。
音感教育はあくまでも、音高を感受する能力が目的です。
固定ド(階名唱法)・移動ド(音名唱法)は、
感受した音高をいかにラベリングするか、
そして、機能和声での機能性を唱法で表現しようとするか否か、
に関する話題です。
別物です。
音高を感受することについては、誰もが疑う余地のない
周波数というモノサシで己の感覚を管理し、
それを人に伝える場面に於いては、様々な表現法があるので
適宜ふさわしい方法を選べるようになればよいのではないでしょうか?
音高の感じ方としては、硬直した階段式ではなく目盛り式のほうが、
そして、場面に応じて自由に目盛りのサイズや読み方を変えられる。
そんなやりかたが、音楽と人間の楽しい関係のためになるのではないでしょうか。
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