武田和大です。木管吹きです。

2009年頃の古文書です
ぼちぼち現状に即して書き直そうかと(2019/07)


Q:アドリブがろくに吹けないんです。
アタマの中で唄っているメロディーと指が連動しません。
アルトを吹いたりテナーを吹いたりしてる事も原因のひとつなのでしょうか。
例えばアタマの中でフレーズを歌っていると同時に、イメージで譜面上の音符としてとらえた方がよいのでしょうか?

A:いいじゃないですか、アドリブなんてできなくても。
え? できるようになりたい?
じゃ、順番に考えてみますね。
(4つのことを同時に質問されてるので、順番にこなしていきますね。)
(とりあえず、ジャズな現場での話として展開しますね。)

最初に言っておきます。
アドリブなんてぇのは、やり方を知ってればできるし、知らなければできないんです。
案外と皆さんその単純なことをお解りでないので冒頭のような質問となるわけです。
誰もが自然にできるようなことじゃないんです。
知る努力の果てにできるようになってるんです。
「自分がそれを知らないってことを知らない」という人も多いわけで。
まずはそれを知らないと始まらないわけです。
やり方を知らない人が「できない」のは当たり前なんです。
じゃ、知ればいいわけです。

もひとつ言っておきます。
アドリブを出来るようになる方法には二通りあります。
子供向けと大人向けです。
先ずは大人向けについて話をしてみます。

さて本題。

「アドリブが吹けない」ってことは「アドリブができない」ってことですね。
ん? 私、トンチンカンなこと言いました?
並べた2つは、厳密には違うことなんですよ。
1つ目は、アドリブという行いをサックスという楽器を使って演奏はできない。
2つめは、アドリブという行い自体が不可能。
という意味です。その2つがイコールではないんですよ。
楽器を吹く以前にアドリブという行為は独立して存在していて、それを実際に音に変えて誰かに伝える行為が演奏なんです。

ではアドリブとはナニでしょうか?
一般的に簡潔にまとめてみますね。(すぐ上に書いたことと最初は矛盾しますが、そのうち戻ってきますからね。)

「演奏行為の最中に、旋律や和声や楽式(ドラマ性)といった音楽的出来事を創作=作曲行為を同時に行い、それをただちに演奏する。
そんな一人二役を行い続けること。
その発想と表現には、共演者の行いや聴衆の反応も少なからず影響を与える。
そこに人間同士の繋がりが生む温度を感じ合いつつ、相互の予測不能な反応とその展開にスリルやサスペンスも感じる。
そんな出来事が定速で進む音楽的時間の流れからコボレないように、綱渡りのような慎重さで遂行される。
宙づりの細い綱(しかも、ある規則性をもって更に細くなったり太くなったりを繰り返す)を走り抜けるようなスピード感、その快感をグルーヴと呼び、民俗宗教でのトランスに相通じる境地なのだ。」

そんな風なものだと一般的には思われてますよね。
なのですが、実際の演奏家の頭の中では少し様子が違うようです。
いわゆるソリストでの立場で考えてみると、、、

「演奏中に、あたかも同時に作曲もしているかに見せつつ、オリジナルと信じられるような旋律や和声を演奏すること。
ただし、その行いは共演者や聴衆の反応と影響を受け合いつつ続けるので、遠い未来あるいは一瞬の未来についても案外と予測不能。
周囲の出来事に反応したり、ワザとしなかったり、それへの反応をまた楽しんだりしながら、あくまでも己の作曲行為を冷静に遂行しているかに見せること。
会話を楽しんでいる風情で実は巧いこと司会進行をしてしまっている(あるいはそれを目指している)状態。
それらの行いをグルーヴに身を任せつつ、そして新たなグルーヴを産もうと試みつつ、うまいこと続けられると、あぁ楽しいなぁ。」

そんなことになってるようですよ。
ではですね、作曲とはどういうことなのでしょうか。
ま、曲を作るってことなのですが、ジャズのサックス奏者がアドリブソロをとるというシチュエイションに限定して説明してみますね。
はっきりと、あるいは大まかに規定された和声進行と構成の繰り返しの上で、新たな旋律をどんどんと造りだす、ってことです。
和声があると、そこには「その和声の源泉となったと思われる音階」が1つあるいは幾つかを導き出せます。
換言すればそれは「その和声の響きにフィットする音階」とか「その和声の上での旋律の材料として相応しい音階」とも言えます。
その音階に含まれる音高の行き来、それに様々なリズムを掛け合わせて旋律をひねり出すわけです。
(基本的にはそういうことです。フィットしない音をワザと使うための方法も色々とありますから。)

ひねり出すにはどうしたらいいのでしょうか。
簡単なことで、ひねり出す方法を学べばいいんです。作曲理論を学べばよいってことです。
が、ソレを学んだところで佳い作曲家になれるとは限らないのが音楽の恐ろしいところです。
いわゆる典型的な理論の勉強だと、スタイルやジャンルや時代性への適応についての学習はスッポカされやすいです。
そうすると、どんなに理屈っぽいことを知っていてもジャズやらラテンやらファンクやらは造れないし、お茶の間歌謡ヒット曲も当然造れないわけです。
それぞれに特徴的な節回し・グルーヴの形・歌い回し・構成、などを知らなければ「あるスタイルでの作曲」は無理なわけで。
よく耳にする「私はクラシックをやってるからなんでも大丈夫」「ジャズの基礎があるからポピュラー音楽全般なんでも来い」なんてぇのは全くにインチキなわけです。
作曲理論の中身については別項に譲るとして、とりあえず旋律をひねり出せるようになったとしましょう。

その旋律を「音楽」にするためには、結果的に「音」になった姿をイメージできる必要があります。


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